前書き
お久しぶりです。てらひまです。
今回はゲームの話ではなく、僕が日頃考えていたこと、社会というものに触れて多少変化した価値観。
そしてよく考え過ぎだと言われる私の思考の根幹、意義について、ドラゴンボールのベジータと刺身のタンポポ(刺身に添えられている花のことでもあり、単調でつまらない無意味に見える行為を指すネットスラングでもある。本記事においては両方の意味に言及する)を用いて説明、咀嚼したい所存です。
長くなりますが、お付き合い頂ければと存じます。
では参ります。
物事の価値の決定権
この世には数多の価値観が存在する。
そもそも価値というもの、そしてそれを決める権利を有するのは誰なのか、まずはそこを掘り下げておきたい。
というのも、前提として自立した人間(この場合扶養の話ではなく)即ち自らの足で歩ける人間は基本的に自由で、他者の自由や権利を損なわない限りは自らの行いに関しての決定権を有する。
そして意識の有無によらず、やること、成すこと、その全てを判断するのは十人十色の価値観である。
簡単に言えば感じ方は人それぞれで、誰かにとって価値あるものが誰かにとって無価値、あるいはその逆なことがある。という話なのだが、それを今一度気に留めて頂きたい。
貴方には誰かを、何かを肯定的、否定的に捉える権利があり、方法を間違えなければそれを発信する権利もある。即ち、物事の価値を決めるのは常に受け手であり、それが好ましいか否かは多数決では決まらない。
当たり前のことだが、この前提がなければ本記事は瓦解してしまうのである。
ベジータに見る創作物からの学び
そもそもベジータをご存知だろうか。
ドラゴンボールという作品に登場する、主人公の終生のライバルの彼である。
念の為ベジータの概要を説明する。
・主人公と同じ戦闘に秀でる種族の王子
・血統、実力に確かな自信がありプライドが高い
・一族の王子として種族自体にも誇りを持っている
・何よりも戦闘を好み、血気盛んな節がある
説明したものの本記事は基本的にベジータを知っている前提の構成なため、知らない方は閉じて頂いて構わない。
話を戻して、ベジータである。
そもそも、ドラゴンボールが名前を知らない人が稀な名作であるのは先述の通り有名だからではない。
有名だから名作であろうというのは誤りではないが、決して本質ではない。
物の価値は知名度によらない。名作だから有名なのである。
さて、創作物からの学び、としたが、ベジータと言えばやはり有名なのはこのシーンである。
これは同族の下級戦士である主人公をベジータが認めたシーンである。
恐らく物語終盤の本シーンまで作品を読んだ人の目には肯定的に映る名シーンと言って差し支えないだろうが、その価値は人によって様々である。
私はこのシーンがドラゴンボールで最も優れていると感じる。
それは誇りと努力の権化とも言える彼が、これまでの戦いの中で悟空に少なからず劣等感や焦燥を感じていた彼が。
それでも決して曲げずに直向きに貫いてきたプライドを、努力を、自分の方が上であるという主張を。
何の為でもなく、ただ自身の納得感のために口にした。
剰えその表情の清々しいこと…。
という感想を抱くからである。
これらの感想はドラゴンボールを知る人なら理解して頂けるところであろうが、上記の全ては描写されているだけで、その描写から何を読み取るかは受け手次第である。
また、それを良いものとして言語化し、表現する方法にも個人差がある。
私の主張は上記のシーンは良い。というものではなく、何かを肯定、否定したいという価値観にも、それを実際に表現する際にも個人差があり、それによって何かを伝えたいと思うのなら、まずは時間をかけて分析し、それを根拠に主張しなければ伝わらないということである。
その点でも上記のシーンは大変分かりやすく悟空を肯定している。
分析(=根拠)と彼の生き様という二つの要素が、見る者に悟空はやっぱり凄いんだ。という納得感を与える。
そして、これが人の心を撃つのは、ライバルを認め、見るもの全てに有無を言わさぬまでの絶大な賛辞を送るということが彼の生き様をより鮮明に表現しているからである。
即ち、経験や価値観による人間性や生き様を根拠として何かを表明することそのものがその人の価値観や生き様をより強固に揺るぎなく美しいものにしていくのである。
最初は理屈しか根拠には出来ないが、それをし続けた人間だけが、彼が言うなら間違いはない、という新たな根拠を手に出来る。
そしてそれを根拠とした肯定だけが賛辞と呼べるのだ。
本項は、私はそれが欲しいから考え続けているのだ、というものであり、貴方はどうですか?という問いである。
何より、物事の価値は受け手が決める以上、全霊を持って主張しなければ、無価値だと評された時に反論の余地がない。それは虚しいと私は感じる。
刺身のタンポポに見る分析の価値と"正解"
打って変わって刺身のタンポポである。
※前書きにある通り、本項では刺身のタンポポ自体(以下食用菊。あれはタンポポではない)も指し、単調で無価値に見えるものという意味のネットスラングも指す。
まず、貴方は刺身の上に花が添えてあるのを見たことがあるだろうか。
なければ他の物でも構わないが、本項はあり触れたものについて思考しないことを疑問視する内容である。
というのも、初めて食用菊を見た時になんだこれは、必要なのかこれは。と思わないのが私にはよくわからない。
恐らくベジータによって私は実に幼い頃から説得力は思考と分析によってなる、というような思考癖とも言うべき価値観を持っていたせいである。
ただ、それでも人間社会では誰もがなんらかのサービスを提供し、利益を得る役割分担の中で回っているのだから、他業種と言えど意味が良くわからないことには漠然とした違和感を感じて然るべきである。
勿論、意味はわからないが食用菊を添えるのにもコストがかかるはずで、企業がやっているのだからそのコストに見合うだけの価値があるのだろう。という考えはある。
そして私はその思考を行ったこと自体を肯定する。
がしかし、それは思考に価値があるが故の肯定であり、いつしかそれを重ねた結果、条件反射的に多分何かある。というような考えに至ってしまうと最早それは思考ではない。分析とは言えない。
本項の主題は物事の価値を受け手が決める以上、何かに思考、分析の価値がないと考えた時点で本当に無価値になってしまう。というものであり、逆に言えば全ての物事は見出せるか否かに差異があるだけで本来価値がある。
そして、分析の価値は思考の価値である為、正解というものはない。人に主張する際は明確にすべきだが、自分の中で納得し、糧とする為の分析は誤解でも構わないのである。
例えば、刺身の食用菊は誤認されているだけでタンポポではないが、アレを始めて見た際に
刺身の上にタンポポが乗っている…。
なるほど、これは恐らくタンポポがロゼット植物(葉が重ならずに平らに広がる植物のこと)であることから、これらの刺身はなるべく重ならずに配置され、それ故に新鮮で見た目も鮮やかになるような工夫をしてありますよ。ということだな。なんとも粋なものだ。
と考えた人がいたとして、これは完全に誤解ではあるが、多少なり価値がある。
彼は恐らくなんらかで人に食事を出す時に彩りに気を使うことができ、参考としてこの考えを用いる。そして、他人が絡む以上その際には綿密な下調べが必要となる為、将来的に彩りの概念に触れる機会を得る可能性がある。
これは詭弁だが、考えなければ無価値な物が、思考と分析によって新たな知見となり得る。
一例を用いただけでは些細に聞こえるかもしれないが、先の分析を一年間様々なことにしている人はそうでない人に比べて豊かな知識や感性を有している。というのは中々に否定し難い事実であるのではないだろうか。
詰まる所、全てをカバーすることは不可能でも無価値と断ずる前にそれから何かを得る人がいる事を踏まえてからそれは無価値であると評価した方がより良いのではないか、そしてそれは何もメディアや趣味のみならず、日常のあらゆるものに通ずる。
結論として、物事の価値を決めるのは受け手なのだから、であれば無価値と決めて無価値にしてしまうよりも、価値がある可能性を加味した見方をすれば、作り手の意図しない形だとしても何らかの価値を見出せるのでは?
ということである。
是非とも様々なものから思考を巡らせ、それが考え過ぎだと他人から評されることに臆さないで欲しい。
何故ならば、考えた人間にしか考え過ぎか否かは測れないのだから。
物差しが長くて問題になる場面もそう多くはないと私は感じる。
肯定と否定の在り方
我々は人類として社会的に生きる以上、何においても協調や共有を求められる。
その際にはどのような場面においても自らの主張や他者の主張へ意見を有することが求めれる。
勿論それをどう表現するかは自由であり、抱いたままを表に出すか否かに関しても自由ではある。
しかし、私が生きてきた二十余年の中でさえ、今このときは主張せねばなるまい、という機会はままあった。
無論、それも価値観によるのだが、それを加味しても全くそういった機会なく人生を終えるということは稀であると感じる。
本項はそういった機会が訪れた時に、より良く適切な根拠をもった肯定、或いは否定を行えなければ折角表に出した主張が気の毒である。というものである。
話を戻して、そもそも前提として日本という国はあまり主張することに寛容でない。
であればこそ、その際には完成度を高くしておく必要があるのだが、まず持って抱いた主張を全て表明しない、或いは状況に応じて変化させ、事を荒げない。
より明確には基本的に他者の意見を否定しない無難な生き方は可能なのか、ということについて触れておきたい。
結論から言えば、"適正があれば可能"である。
この適性というのは価値観の観点のものであるが、個人的には稀有な資質に感じる。
がしかし、主張をしない生き方が無難であるか、という点に関しては疑問が残る。
無難という単語を、波風が立たない、安定思考、というような意味合いで捉えるなら確かにそうなのだが、波風は他者からも立ち得る。
そしてそうなった際、主張をしない人だ、として認識されていることはそのまま主張の障壁となる。
主張しない、が主張出来ない、に変わってしまい得る可能性を踏まえた上で、それでも適宜主張出来る人を適性がある、としたい(そもそも私はこんなブログを書いている時点で適性がないので主張しない派のことは自分なりの解釈でしか想像出来ないのだが)。
上記に伴って、一つの派閥が生まれる。
"誰も何も言うな派(以下、仮黙派と呼称)"である。
仮黙派は、ことを荒立てたくないし全員あまり喋らないで欲しいな、という考え方の宗教(信じる物、という意味で既存の宗教とは無関係)なのだが、この宗派は事の他ありふれている。
確かに、先述の通り波風を立てない為に主張しない、というのは他人が波風を立てる(何らかに激しい主張をする)可能性の為にリスキーな面がある、という以外は基本的に安全なのでこの宗派が流行るのは合理的であると言える。
しかし、しかしである。
聡明な方はお気づきの通り、これは最早暗黙の主張なのだ。
誰かが何か言うと面倒だから、時間がかかるから、場が荒れるから、静かに終えようよ。というのは、目に見える形で表明されていないだけで一つの主張である、ということである。
これは合理的でない。冒頭に書いた通り、自分の足で立つ人間は自由だが、自由であるということは同時に、全ては自己責任であるということである。
主張する上では納得させるための根拠を用意すべきで、その根拠の価値は受け手が決めるのであって多数決で決まるわけではない、とした本記事において、この手法は主張の術としては間違っている。
先程"宗教"としたのはその為であり、例えば会議において無難にそつなく大人しく終えたい。という考えも、率先して全員意見を出していくべきだ。という考えも、いずれも根拠を明示して受け入れられない限りそれはただの欲求であり、派閥の問題である。
どちらもしっかりと何故そうすべきであると考えるかを言語化し、理解を得るなり議論を行なって初めて成り立つ行いである。
人を変えようとするのは本来それだけのものがコストとしてかかるのだから。
であればこそ、やはり何かを否定、肯定する為には暗黙ではならない。
勿論、人間関係において表現というのは会話だけではないが、察して欲しい、というような行いは最早コミュニケーションでも主張でもない。ぬるま湯である。
そこに大人になるだとか、子供じみているということはなく、口にも出さずに人に変わってもらおうという発想は論理的に誤りである、という事実が横たわっているのみである。
故に、人の生とは自らの理念を適宜表現し、人に伝え、自らを表明しながら彩っていく旅なのである。
以上が、長きに渡る私の主張である。
最後に
閲覧ありがとうございます。
あくまでお断りしておきますが、これは特定の個人や団体を変えたいだとか、不満があるというようなものではありません。
私はこうだ、ということを示し、それが誰かの目に触れ、書いてある通りその人にとって価値のある文章であればお得だな。というような心持ちで趣味的に書いたものです。
その点では、価値を決める受け手であるあなたがこれを無価値とするならそれもまた仕方のないことです。申し訳ない気持ちもありますが、価値があるかもしれない、として読み進めて頂き、その結果違った、という経験値自体に価値がある、というのも先述の通りですので御容赦願います。若干詭弁かもだけど。ごめんね!
また、何かございましたらお気軽に
Twitter@genganannsu27
までお寄せください。
また、再三となってしまい恐縮ですが、
疑問視される方も多いかもしれませんので明記しますと、本記事は一般論を書いている語り口ながら、少なからず僕の"他人に自分の考えを伝えたい"、"考えないと勿体ない"、"ドラゴンボール は名作"といった価値観が混ざっています。
ただ、この事実は問題ではなく、どうしても人は自分の価値観によってしか動かないということや、結局根拠は後付けだったり人に伝えるためのツールであり、根幹にあるのはその人の価値観に基づいた欲求である。ということまで踏まえて良しとしました。
冗長かもしれませんが、補足として。
重ね重ねになりますが、御閲覧ありがとうございました。
本記事によって、貴方の生に多少なりとプラスが生じていれば幸いです。