てらひま式ゲーム考察

ゲームの話とか僕の価値観の話とかします。

人生における各組織の考察と現状の結論

 

 


お久しぶりです。

てらひまです。

やけに大仰な上に頭の良くない大学生のようなタイトルで急にブログを書いたのは、数多の友人知人や自身の見識が、昨日突然気付きとなった為です。

 


砕けた書き方をするならあ、人生で属する(属してきた)組織って大体ここが大事っぽい。と気づき、腑に落ちたのでメモ代わりにまとめる。という感じです。自分語りを含むかもしれませんが、短めにする予定です。

また、組織といっても小、中学校、高校、(大学)、そして会社及び社会の順にそれらにおいて重要視される行いを抽象的に結論付け、後から詳細な理由付けと考察をします。

 


では参ります。

 


各組織における最重要項

 


結論から先にまとめると

 


小学校→"取り組む"こと。結果の価値は低く、する、しようとしたということ自体が価値を持ちます。

 


中学校→"出来る"こと。上記を波及させ可能なことが増えることに価値があります。出来るのなら毎度やる必要はありません。

 


高校(大学)→"出来る"を磨くこと。質でも量でも良いので出来ることを増やすことに価値があります。

 


会社及び社会→"どのように"する"(或いはしない)か。

やるならやり方が重要で、或いはやりたい、したい事に関しても状況に応じてやらないことが肝要です(基本的にやらないことそのものは評価はされません)。

 


上記の詳細について

 


※下記においては結果と過程のどちらが重要視されるか、とありますが、基本的に結果>過程の場合は結果が重要視、と書きます。過程が無価値という意味ではありませんので悪しからず。

 


・小学校

基本的には何においても取り組むことに価値があると書きましたが、特段考察するようなことはありません。

 


勉強の面でも出来るかどうかというよりやれば誰にでも出来るようなことが主で、それが評価されるとわかるからこそ小さな自尊心と共に挙手式の問題にも群がることが出来ます。重要なのは、ここで結果はそこまで重要視されないという点です。

 


・中学校

"出来る"ことが価値を持つと言いましたが、具体的には個人差のある中で、得意不得意や習い事等によって得た自己を根拠を持って表に出すことに価値が出始めます。

 


ここで重要なのは、"やる、する"は絶対的な行いなのに対し、"出来る"は相対的なものである為、比較や差別化を試みる必要があるということです。また、この際にも結果は必須ではなく、"出来る"ということを示せれば問題はありません。また、本項における"出来る"とは、技術的に可能ということのみならず、性格的に抵抗がないということを含みます。

 


・高校(大学)

"出来る"を磨く、としましたが、これは一芸に秀でるも良し、多芸に手を伸ばすも良し、いずれかを行うことに価値があるという意味です。また、本記事においては大学は高校のロスタイムとして考えます。

 


中学である程度明らかになった自己を補強していくという印象でしょうか。また、この際には結果(≒可視化)が重視されます。得点でも資格でも、基本的には可視化されていればむしろ過程の方が軽視されます。ここで、可視化されていない技能に関しては根拠に基づいて言語化する必要性に駆られますので、個人的には言語化が苦手で無資格の人間は詰みが近くなってしまうように感じます。

 


・会社及び社会

どのように"する"(或いはしない)かに価値があるとしました。※ここにおける"する"とはなんらかの結果を示せる行為を行うことです。

 


これは、するならば過程が評価され、しないことにそれなりの安全性に基づく価値がある、という意味で、これまでと明らかに異質です。

 


というのも、しないことには価値はありますが、評価はされません。無難である以上我々には価値があるものの、評価対象ではありません。また、結果至上主義という旨の発言をする会社及び上司も居ますが、基本的には誤りで、正しくは「"自らの地位や尊厳は絶対的に守られるであろう前提"で、結果が出れば"文句は言わない"」です。単なる結果至上主義との差異は、例え結果が出ても自らの尊厳が傷つくような言動が見られる場合と、仮に部下の躍進が自らの地位を脅かすような場合はその限りではないという二点と、結果が出れば評価する、ではなく、結果が出れば文句はない、という点です。結果優先主義とでも言うべきでしょうか、至上というほどの力を持ちません。

 


会社及び社会の異質性とその根幹

 


さて、ここまでの流れの中で異質性を唱えた会社という組織ですが、その異質性の根幹について考察します。前提としては

 


1.経験値テーブルの差異

2.評価者の立ち位置

 


この二点です。順に説明します。

 


1.経験値テーブルの差異

 


突然ゲームの話ですが、これは評価を得る(≒レベル、ランクが上がる、自己満足度)ということが可能なポイントを貯める上で、異常なまでにコスパが悪いということです。

具体的に言えば、小学校ではスライムを倒せば100。中学ではスライム10、ドラキー20、ギガンテス100。高校ではスライム1、ドラキー2、ギガンテス10、バラモス100というような流れだったものが、会社に入ると他は0、デスタムーア1(※画像参照。右手と左手を倒さないと本体に攻撃が通らない上、左手を放っておくと右手が復活する)になります。経験値テーブルの差異は後述の評価者の立ち位置から生じるものですが、結果だけ見れば明らかにコスパが悪いこと請け合いです。

 


どのようにする(或いはしない)か、と言いましたが、評価を得るまでの過程を余程用意周到にする必要があるばかりか見返りが小さいです。しないことが無難な価値を持つ、というのはそういうことです。

 


2.評価者の立ち位置

 


これは自らに評価を下す人の立ち位置が会社という組織だけ異なる、という点です。

これまでは教師、教授、或いはアルバイトであれば店長、正社員が評価者で、これらは全てその際の自分の立ち位置とは全く別の位置です。故に、彼ら彼女らは大きな失態を犯すか大きな悪意が組織されない限りは立場が守られていて安全です。

そのことから、ある程度俯瞰的な評価を下すことが出来、それが経験値テーブルの内容に紐付きます。

 


ところが、会社における上司という存在は、自分の立ち位置と異なるものの、別物、というほど圧倒的な存在ではありません。

部下の失敗の責任を取らなければならなかったり、全体的に責任という枷が大きい為、評価には自分との比較が多分に含まれてしまいますし、不満も微細かつ多大です。故のデスタムーアですね。

 


では、どう生きるか

 


気付きを得た、と冒頭に書きましたが、私は社会人になってからもスライムやバラモスを倒して評価されるものだという前提の勘違いがあり、それに不満を感じていましたが、冷静になって考えてみるとスライムもバラモスも全員倒してきているので今倒されても…、という話なのかな、というのが所感です。また、では、どう生きるかという話ですが、これには以下の6つ選択肢があります。

 


フリーター(緩めの経験値テーブル)

会社勤め(部下)

会社勤め(上司を目指す)

政治(根幹を揺るがす)

起業(王)

死(救済)

 


どう生きるかと書いておいて死を選択肢に入れるのはお門違いかもしれませんが、まあそれは置いておくとして、この六つには上から

 


老後

不満、発言する上での面倒さ(慣れアリ)

デスタムーアとの連戦

そもそもの難易度とコネ、時間的コスパの悪さ

借金

知人友人の怒り悲しみ

 


というリスクがあります。

 


基本的にはリスクリターンのバランスでものを考えものだと感じますが、こう見ると2種の会社勤めを選ぶ人が多いのも頷けますね。そもそもデスタムーアを倒すのが得意な人もいるでしょうし。

ただ、記載のリスクを加味しても他の選択肢にも十分選ぶ価値はあると感じます。

個人的には人生には興味がないのでどれも魅力的に見えますが、暫くは会社勤めしつつデスタムーアの倒し方を模索してみたりしなかったりしようかな、という心持ちです。

 


最後に

 


ここまでありがとうございました。僕は別にデスタムーアが好きな訳ではないのですが、意見一つ通すのにこんなにめんどくさいのかよという出来事がこの前あったので例えに用いました。FF派のことは知りません。僕はドラクエ派です。

 


また、わざわざ気付きを得たなんて言って記事にしていつものてらひまやんけ!という意見もありそうですが、これは個人的には誤りで、本質的に理解出来ないと私は行動を変えられない(本当に変えられません、拷問です)ので、主張をしないという人がどういう心持ちなのか、本質的でないにせよ理解らしき物を得ることが出来たということが大きいことです。

また、本記事は半ば(前もって言いますが自殺する予定は今のところありません)遺書のようなものでもあり、というのも、私も近いうちに言わない方が無難、を選び行くところまで行ってしまうのかもしれない、という気持ちでいます。

 


断っておくと、それが悪いことだとは感じませんが、私がこれまで21年やってきたことから考えると異質で、諦め混じりの行いにも感じます。

また、そうならない限りは分かりませんが、そうなった私を見て、成長したと笑う人がいてくれるであろうことは、とても幸せなことです。

しかし、同時に、昔のてらひまが好きだった、と言う人もいるのではないか、と感じます。

勿論、いずれもいないかもしれませんが、私には両方いてくれるような気がしてなりません。

 


私は何も人の目を気にして自分を作った訳ではありませんが、あれだけ頑固に頑なに俺はこうだ、と言っていて、それを気に入って近くにいてくれる人がいる中で、何かを大きく変えることは失礼なのではないか、という気持ちが少なからずあります。

勿論、主張をする人間の責任として、明らかにそちらの方が無難だとか、自分が間違っていたと感じた際に頭を下げることに余念はありませんし、譲れなさの言い訳に他人を用いる気はありません。

 


ですが、もし変わってしまって、それを少し悲しむ人がいて、そうなった時に私はこっちの方が無難だった、申し訳ない、という他ありません。

どこまで行っても私の人生だ、と開き直る事は出来ません。

ですから、今後どうなるかはわからないものの、昔存在した"てらひま"の為に、本記事をネットの海に流しておこうと思います。

どちらかといえばポジティブな内容のつもりなのですが、なんだか物悲しげな文章を書いてしまいました。

 


ただ、今後も私の本質はきっと変わりません。

何故か恵まれた多くの友人を想い、派手か地味か、過激か無難か、何かしら生きています。

 


という訳で、稚拙な文章になってしまいましたが、今回はこの辺りで筆を置かせて頂こうと思います。

 


閲覧ありがとうございました。

 


てらひま

@genganannsu27